チョコレートの贈り物 9話

                            
「オスカル、戸棚に鍵はかけたぞ」
「ああ、ありがとう。アンドレ。鍵はいつもの通り、一番上の引き
出しに入れておいてくれ」
「ああ、わかった」
アンドレの部屋の中を移動する靴音が聞こえる。

オスカルは、その物音を聞きながらノロノロと寝台から足を伸ばし、
靴を履こうとした。頭に残る眠気。体に残る気だるさ。しかし、その
気だるさは、体が重く感じる気だるさとは違っていた。アンドレが自
分の傍にいる。そして、夢の中で彼の花嫁の座を約束された娘、シル
ヴィーは自分の幻影だったと気がついた。その事への驚き。甘酸っぱ
い気持ち。

『自分はこんなにもアンドレを求めていた。あの性急な告白のときは
どう対処していいかわからなかった。けれど、もし今なら・・・』
オスカルは片足を靴に突っ込んだ。

「あれ?オスカル、これは何?綺麗な箱だな〜」
半分、夢うつつ状態のオスカルは、彼のこの言葉に冷水を浴びたよう
に立ち上がると履きかけていた靴をポイッと脱ぎ捨て、そのまま執務
室に飛び込んだ。

窓からはその日の最後の陽の光が名残を惜しむように差し込んでいた。
アンドレは銀のリボンのその箱を夕陽のオレンジの光にかざして楽し
んでいる。

「これ、良い匂いがする。オレンジの匂い。チョコレート?オラン
ジェットだ」
オレンジを使ったチョコレート菓子はアンドレにとっては数少ない母
の思い出だった。その味を伝授したのは祖母だ。アンドレの脳裏に幼
い日の記憶が蘇る。

「俺の好物。もしかしてくれるの?」
「違う!」
「じゃ、誰?」
アンドレは『だれ』の『れ』を低く発音した。

「ダグー大佐」
「え?お前、渋いな・・・・」
「わたしの勝手だろう?さぁ、返してくれ!」

「嫌だね」
いつもとは違うオスカルにアンドレは意地悪く言った。箱を持つ手を
高く掲げてオスカルが取り戻せないようにした。
「アンドレ!どうしてそんな意地悪をするのだ。早く返して」
オスカルは頬を紅潮させながら手を伸ばした。

「たしか、明日はヴァレンタインだったよな?」
「なぜそれを?」
「ロザリーが教えてくれた」
ロザリーと聞いてオスカルは、ますます頬を紅潮させた。まさか、ロ
ザリーのヤツ、アンドレに何か吹き込んでやしないだろうな?

「と、とにかく返してくれ」
オスカルは、背伸びをして高く掲げられたチョコレートに手を伸ばす。
「さぁて、どうしようかな?」
アンドレは悪戯っぽく笑う。
「本当にダグー大佐にあげるの?オスカル。ロザリーが言っていたの
はこのチョコの事かと思ったのに!」
「え?ロザリー」
オスカルは、ますますびくびくする。チョコレートをこいつに渡した
いと思った。でも、まだその口実を考えていない。

・・・いや、本当は口実はある。さっき、その口実を見つけたばかり。

『アンドレ、お前が好きだ・・・・』

でも、言えない。今まで散々お前に対して中途半端な行動をとってき
た。お前に襲われたあの後、何も処罰しない。何も語らない。傍にい
て欲しいとも出て行けとも、わたしは何も行動をおこさなかった。ど
うしていいのかわからなかったのだ。わたしが、こう言えばお前がこ
う反応するだろう・・・。

そんな卓上の事ばかり考えていて、いつのまにか、時間が流れて話が
できなくなった。お前はこんなわたしをどう思っていたのだろうか?
本当は、告白の傷が生々しいうちに、おまえと話をしておくべきだっ
たのだ。

わたしは、逃げた。精神的に逃げた。だって、お前を失いたくなかっ
た。あの時に、ふたりで話し合いをしたとしても、お前は責任をとっ
て屋敷を出ると言い張っただろう。お前の考える事くらい、皆わかっ
ている。

そう、わたしは、お前とコミュニケーションが取りたかった。幼い頃
ばあやが作ってくれたオランジェットを両端から競争して食べた時の
ように・・・・。



 



「ねえねえ、ばあや、アンドレと食べるの競争したいんだ。だからう
 んと長いオランジェットにしてね?」
ばあやはオレンジの皮を何本も繋ぎ合わせ、わたし達に作ってくれた。

また、あの時みたいな優しい気持ちになれたらいいのに。ああ、でも
チョコを取り返さなくては。でも・・・口実が。もう、なぜ、自分が
背の高いアンドレに食い下がっているのかわからなくなってきた。

彼女の、その様は子供がだだをこねて、口実がないと泣き止まぬ事が
出きない状況に似ていた。

「もう、そんな欲しいならお前にやる!わたしが初めて作った菓子だ
 からな、ありがたく思えよ!」
オスカルはテレ隠しに怒ったような口調で言った。視線が空を泳いで
いる。どんな顔をしたらいいのだ。誰か教えて!

「お前が作った?そんな素振り・・。お、そういえば最近、ベルナー
 ルの家にパリの情勢を聞きに言ったよな?ご丁寧に平民の服に着替
 えて。職務のためだと思っていたがロザリーとこれを作っていたの
 か?」
「や、やっぱりロザリーから何か聞いてるな?アンドレ。人が悪いぞ」

本当はアンドレはロザリーからは何も聞いてはいなかった。ただ無理
やりにワインの店に連れて行かれ、気がついたら勘定をすませていた。

「私、オスカル様にワインをお持ちしてあげたいのだけど、ほら!愛
 するベルナールがいるから。きゃっ!」
と、ひとしきりはしゃいだ後、
「だから、アンドレ。しっかりとお嬢様のお相手をするのだよ」
と、ばあや口調でからかわれ、何がなんだかわからない状態のアンド
レだった。
『結婚したら女は変わるな〜』
などと思いながら兵舎に帰ってきた。モーザック種のワインを携えて。







帰ったら、オスカルが泣きながら寝ていた。
『もう、お前の泣き顔を見ても気持ちがぐらつかないように』
と、アンドレは深呼吸をしてから大切な彼女を抱き上げて仮眠室に運
んだ。

何も起こさないと頭に叩き込みながら・・・・・。
何か起これば良いと微かな希望を抱きながら・・。

「じゃ、気が変わらないうちにもらっておくよ。ダグー大佐に悪いな」
「ふんっ!」
アンドレは、ぐいっと彼女を引き寄せた。
「お礼!!」
そう言って彼女の額に口付けた。それは、子供の頃からの自然な習慣だ
った。そう、あの告白の瞬間までは・・・。

オランジェットに託された自分への彼女の好意。本当は、わかっていた。
このチョコは最初から自分の物だと・・・。

でも、自分は、わずかな事でもコミュニケーションが取りたかった。そ
れが、たとえ男と女の事でなくとも彼女が自分を気にかけてくれるだけ
で心が暖まる。

アンドレは、思わず彼女を引き寄せてしまったが、後で軽く流せば良い
と思った。しかし、アンドレの予想に反しオスカルは動かなかった。自
分の鼻先を彼の胸にこすりつけるようにして、そのまま彼に身を預けた。

辺りにオランジェットの良い匂いが漂っていた。       つづく


        
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