チョコレートの贈り物 最終話 後編  牡丹様作 

                         
屋敷の中は思ったとおりか、それ以上にしんとしていた。
ばくばくと激しく高鳴る心臓が、静かな空間に妙に大き
く響いて恥ずかしくなる。抜き足、差し足、まるで賊の
ようだと、ひとり自嘲するにつけても情けない。

幾多の扉の前を滑るようにして通り抜け、大理石の階段
を歩くときには靴さえも脱ぎ去った。
とにかくそっと…誰にも気づかれてはいけないのだから。
わたしはいない、ここにはいない、誰もいない。
心の中で何度も何度も繰り返していた。

こんなにアンドレの部屋は遠かったか?
思えばパリからアルザスまで歩いたような長旅の心地。
しかし、目的の扉は今や目の前。
到着してしまったらこちらのもの、あとはそっと忍び足
で彼の枕元にでも包みを置いて逃げ帰ればいい。





ギイイィィ…

うるさいぞ!!

扉に向かって、頼むから静かにしてくれと叫んでいる自
分が馬鹿みたいだった。

そっと部屋の中につま先で入って、扉を閉めて、さあ、
一安心…と思っても、先は長い。

アンドレの寝台が、微妙に遠い。
そんな、まさか扉を開けていきなりベッド、なんて思っ
てはいなかったが、困ったのは床が木製で…。

そうか…われわれと使用人とでは違うのだ。

なんとなく悲しくなったが、今はそのような感慨にふけ
っている場合ではないのだ。とにかく包みを置いて帰ら
ないことにはどうにもならない。

オスカルは意を決して、ギシギシなる床を、できるだけ、
本当にできるだけ静かに静かに歩いて、普通の輩ならも
のの2秒で行き着けるだろう寝台を、何分もかけてこそ
こそと忍んでいった。

明日、もし筋肉痛になったらこのせいだ。

やっとのことでたどり着いたアンドレの寝台。
よかった、彼はまだまだすっかり夢の中である。

黒い瞳は見えないけれど、
つやつやとして少し寝乱れた黒髪や、うっすらと開いた
あどけないくちびるを見ているうちに、知らず知らずの
うちに目が離せなくなっている自分に気づく。

慌てて首を大きく左右に振るのだが、しかしそれでもつ
いつい見てしまう。

昔そのままのアンドレの寝顔。
あの頃よりだいぶ面長になって、目元やあごもずいぶん
と男らしくなったけれど、でも間違いなく、そこには昔
の面影がちらほらと見え隠れしている。

とりわけ、くちびる。

自分の知っている誰よりもきれいで、上品で、でもどこ
かあかぬけない、昔そのままのくちびる。優しい声に従
って動くときも、白い歯がふとのぞくときも、おいしい
ものを見て舌なめずりするときも、他のどんなときだっ
て、このくちびるはいつでも優しい色をしていた。
そうだ、たった今だって。

オスカルは彼の顔をもっと近くで見たくて、そっと床に
膝をつけるとふかふかの寝台の上で頬をついた。

凛々しい眉、まつげの長いまぶた、通った鼻筋、肉つき
の薄い頬に固いあご…それから、大好きなくちびる。

何もかもが愛しくて、何もかもを独り占めにしたくて、自
分と彼の間を阻むものはたとえ何であっても許せなくて…。





急にフラッシュバックのようにあの女の姿が脳裏を
よぎった。

小柄で華奢で可愛らしくて、アンドレの婚約者だと公言し
た、この上なく可憐な女。
豊かな金髪をひとつに束ねて、聖母マリアよりも美しい笑
顔をふりまいていた、あの女。

ロザリーのくれた黒いリボンを自らの髪にあてがって、
シルヴィーと名乗った彼女が自分の虚像と気づいたときに
は、もう何もかもが手遅れだった。

オスカルはすっかりアンドレへの愛にのめりこんでいたの
である。本当に、どうしようもないほど深く、深く。

そこまで愛していなければ、こんな夜更けに男の部屋へ忍
び込んだりなどしなかったし、いつまでも飽きずに男の寝
顔など見ているわけもなかった。

そういえば、と探った夜着のポケットには男の髪と同じ色
の美しいリボン。
あの時は、鏡の中に映った自分に絶句して、このリボンの
ことを少しも見ようとはしなかった。
それどころか、アンドレへの罪悪感が後から後からあふれ
出てきて、どうにもこうにも心苦しくてたまらなかった。

けれど、今はどうだろう。

愛しい男にチョコレートを渡したいがためにこんなところ
までやってきた今では、このリボンはどんなふうに見えて
いる?もちろん、今でもリボンを見れば心は痛む。

傷跡の無残に残る左目に涙を落としたくなる。
しかし、それとは別に、もう一本の道が続いているような
気がしてならなかった。

リボンというものには端が二つあって、ひとつはアンドレ
への罪とその贖罪が、そしてもうひとつには、それとは全
然別物とでも言うべき、自分が完全な女になるための入り
口がのぞいているようには見えやしないか。

愛する男のために女になる。

シルヴィーがアンドレと睦言を交し合っていたとき、自分
の中で、まるでどす黒い地獄の炎のようなものが燃え上が
る心地がした。

剣を振り上げたときも、悲しくて悔しくてアランに結婚を
迫ったときも、夢だとわかってほっとしたときも、思えば
いつだってその根本にはアンドレがいた。

そしてアンドレを想い、そのために乱れる自分がいた。
気づかぬうちに、自分は「女」になりはじめていた。

「愛している、愛している…」

眠っているのはアンドレのほうのはずなのに、
まるで自分がうわ言を言っているみたいに、何度も何度も
繰り返しつぶやいていた。


緑色のきれいな包み。
結局14日のうちには渡せなかった、小さな小さな自分の
気持ち。

そっとリボンを解いてみる。
包みを開いて中身を取り出す。
カサカサ鳴っても気にしない、オレンジの香りがあまりに
も豊か。

目覚めるかな、でも起きてしまったなら、
それでもいいな…。

チョコレートとオレンジの、甘くてほろ苦い、いい匂い。
胸がいっぱいになる。
小さな贈り物ひとつも渡せなかった自分が馬鹿みたいに思
えてくる。

丹精こめてつくり上げたチョコレートを、ほんの少し、ほ
んの少しだけ割って小さくして、アンドレの開いたくちび
るに滑り込ませた。
小さなくずがこぼれて、男の口元にくっついたのをぺろり
と舐めて、もうひとかけら、もうひとかけら。

アンドレ、虫歯になるかな。
でもいいか、今日だけだからな。
朝起きたらしっかり、歯、磨けよ。

ちょっと笑って、開いた包みはそのままに、そっと静かに
立ち上がった。

アンドレが、朝、自分の思いのたっぷり詰まった香りに包
まれて目覚められるように。
昨日は渡せなかった、気持ちばかりの贈り物を、朝一番で
受け取ってもらえるように。

そしてチョコレートの隣に黒いベルベットのリボンをそっ
と潜ませる。
アンドレのつややかな黒髪と紛れて、どちらが髪で、どち
らがリボンかわからないほどだけれど。

「朝になったらそのリボンをわたしのところへもう一度持
ってきて。 そしてもう一度わたしの髪をそれで結って。
 そうすれば、きっと明日は言えると思うから。
 この気持ち、絶対におまえに告げてみせるから。
 だから、だから…今はお休み、わたしのアンドレ」

額にくちづけ。

今のわたしはいったいどんな顔をしているのだろう。
夢の中のような、シルヴィーみたいな顔を少しでもしてい
たらうれしいな。

そう独りごちて彼の部屋を出たのは、
もうフクロウどもが退散する夜明け前のことだった。
                                Fin





『あとがき』
牡丹様のうたうような文体がとても好きです。アンドレの部屋で
床が鳴らない様に抜き足差し足で歩く彼女がカワイイです。
牡丹さま、有難うございました。             By無窮


      
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