チョコレートの贈り物 7話

            
『アンドレ・・・』
オスカルはアランに身を任せながら思わずその名を心の中で呼んだ。
これは、もう彼女にとっては生活習慣病みたいなものだった。昔から
心細くなると呪文にように唱えた名前。仕官学校の時も、初めて宮廷
に伺候したときも、そして馬車襲撃の時のアンドレ救出の時も・・・。

オスカルの睫が震えている。
「隊長さんよぉ〜。案外気が小せぇんだな?」
オスカルは閉じていた瞳を開けてアランを見た。蒼い蒼い海の色の瞳
にアランは甘やかな眩暈を覚えた。

「意地をはるのもいい加減にしなって。アンドレのことが気になって仕
 方が無い癖によ!」
「あんな男、もう知らん!それよりも、わたしの夫になれば将軍の地位
 だって夢ではないぞ?わたしは、お前と結婚したら軍隊でのポジショ
 ンは、アラン、お前に譲る」

少しの沈黙の後にアランが口を開いた。
「ふ〜ん。確かに、俺みたいな貧乏貴族には願ったりだな。だがな、俺
 は人形と結婚する気は無い。たしかに美味しい話だな?俺も生身の人
 間だから相当ぐらついているが、あんたは本当にそれでいいのか?」
「・・・・・・・」
「確か、年下は嫌いだったな?」

オスカルは下を向いたまま、弱々しい声で返答をした。
「わたしは、お前には軍人としての資質があると思っている。その統率
 力。軍隊の中にいて、これほど武器になるものはない。もし、実力重
 視の社会だったらお前は間違いなく出世する。そのチャンスを生かし
 たくはないか?アラン」
「そりゃ、生かしたいよ。俺だって出世して家族に楽させてやりてぇと
 思うさ」

「なら、チャンスを生かせ。わたしを娶れ・・・」
「いや、それとこれとは、やっぱり次元が違うと思うぞ」
「もう、軍人なんか嫌だ。いや、貴族なんかもう嫌だ。わたしが平民の
 娘なら誰にも気兼ねなくアンドレと一緒になれたのに・・・・。何が
 将軍家だ。何が跡取だ」

「オスカル・・・」
アランは哀れむようにオスカルを見た。こんなに弱音を吐く姿は初めて
だった。今までは、おそらくアンドレの前でしか見せた事が無かった顔
を俺に見せてくれている。
いけ好かない女隊長。鼻ッ端が強くて、剣の勝負では俺に勝ちやがった。
何もかも気に食わないと思っていた女が急にいじらしく見えた。

「本当にいいんだな?後になって冗談でした!は無しだぜ?隊長」
「ああ。武人に二言はない」
「じゃ、商談私立だな・・・」
アランはオスカルの顎に手をかけた。そのまま、唇を合わせた。オスカル
は抵抗しなかった。なぜなら・・・。

瞳を閉じてアランの口付けを受けるオスカルは、ただ一点を思っていた。
『わたしは、この口付けを知っている。なぜ?』
まだ、フェルゼンの事を恋していた頃、パリの酒場でアンドレと飲んだ。
酔えずに乱闘を起こしたその帰り道、彼に抱かれて星空のもと帰宅した。
あの時の唇に触れたやわらかな感触。自分の中に流れ込んできた暖かな感
情。涙が流れたあの夜の・・・・?


        


『これは、アンドレの口付けだ!』
オスカルは瞳を開いた。途端に両目から涙がこぼれ落ちた。
『わたしは、泣いているのか?』
両の手のひらで眼球を押さえた。
「あ、オスカル、起こしてしまったか?」
聞きなれた声。見慣れた天井。暖かな寝具。脇のハンガーに行儀良く掛け
られた自分の軍服。

「アンドレ?なぜここに?」
「ごめんごめん。パリでロザリーに会ってちょっと遅れてしまった」
オスカルはぼんやりと記憶を手繰り寄せた。
「アンドレ、今日、お前に面会人があった。」
「うん?」
「シルヴィーって言う女性なんだけど」
「シルヴィー?いや?そんな人、知らないぞ」
「とても綺麗な女だった。お前の婚約者だと名乗ったぞ?」
「ほう?そいつは惜しい事をしたな〜」

アンドレは、はははと笑う。オスカルの頭の中はまだ混乱していた。
「それで、わたしの前でいちゃつくんだ。頭に来たからぶった斬ってやろ
 うと思ってアランに止められたんだ」
「アランに?」
アンドレはいぶかしそうな顔をした。
「ああ、今日の面会日にディアンヌ嬢も来ていた。彼女にお茶を入れても
 らった」
アンドレは呆れたようにオスカルの顔を覗き込んだ。

「お前、何を寝ぼけているんだ?アランなら今日、おふくろさんの体調が
 悪いと言って早退届けを出しに来ただろう?」
「え?」
「朝、ディアンヌ嬢がアランを呼びに来たじゃないか?本当にしっかりし
 ろよ。全く、俺が帰ってきたら居眠りをこいているし、仕事も全然片付
 いていないし」

オスカルはかぶりを振った。一体どこからが夢だったのか?今日は一日ア
ンドレに渡すチョコレートのことばかり考えていたから、感覚が変になっ
たのか?オスカルは、苦笑した。かつて氷の花と言われたこのわたしが、
ひとりの男にチョコレートを渡す事にこんなに気を使うなんて・・・・。
このことをアンドレ、お前が知ったら一笑にふかすだろうか?


「お前、まだ寝ぼけてるのか?本当にあんな所で寝てたら風邪をひくぞ。
 子供じゃないんだから、俺がいちいち言わなくとも眠かったら仮眠室で
 寝ろ」
そう叱るアンドレの声が嬉しくてオスカルは安堵の表情を浮かべた。
『夢だったんだ。良かった』

オスカルはぼんやりと先ほどの口付けを思い出していた。そっと唇をいら
う。やけに生々しい夢だった。
「なあ?アンドレ」
「うん?」
「わたしが寝ているときに何かしたか?」
「えっ!?な、なにも・・・」
「ん、そうか・・・・」

アンドレはオスカルに羽織らせようとした軍服をパサリと取り落としてし
まった。
「アンドレ、今日はもう帰ろう。夢見が悪くて疲れた・・・」
「はいはい。お嬢様。では帰宅前にそのぐちゃぐちゃな御髪を直そうな?」
そう言いながらアンドレは仮眠室の小さな鏡のところからオスカルのブラシ
を持ってきた。オスカルに手鏡を渡す。
オスカルは彼に髪をすいてもらう間、借りてきた猫みたいにおとなしくして
いた。

アンドレの大きな手で髪を触られ、彼女は眩暈すら覚えた。
「はい、お終い」
そう言ってアンドレはズボンのポケットからひとつのリボンを取り出した。
「ほら、綺麗だろう?ロザリーからお前にって渡された。ヴァレンタインだか
 らプレゼントだと言っていたぞ」
「ロザリーが?」

黒のベルベットのリボン。

「ちょっと、しばってみたらどうだ?」
「うん。じゃ、ちょっとだけ」
アンドレに手鏡を渡して、リボンを後ろ手に結んでから手鏡を覗いた。
『!!』
そこには、先ほどの女、シルヴィーが写っていた。         つづく


      
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